コレクション作品

MoMA(The Museum of Modern Art)

・An Expression

MoMAホームページ

《An Expression》は、土佐尚子の初期ビデオアートにおいて、映像・音・身体の関係を根底から組み替えた作品である。
本作では、顔の表情を収集したイメージを時間軸上に配置し、その明暗の変化を光センサーによって読み取り、リアルタイムで音へと変換するシステムが構築されている。
ここで重要なのは、映像が音楽に付随するものでも、音が映像を補完するものでもない点である。
両者は因果的に結びつき、映像の変化がそのまま音となり、音が再び映像の知覚を変化させる。つまりこの作品は、視覚と聴覚の関係を表現するのではなく、その関係が生成される仕組みそのものを提示している
さらに、本作は「表情」というテーマを扱いながら、感情を表現してはいない。
個々の顔は意味や物語を担うのではなく、単なる光の分布として扱われ、その変化が音へと変換される。ここでは、感情は読み取られる対象ではなく、システムの中で立ち現れる現象となる。
この点において、《An Expression》は、後年の《Sound of Ikebana》における「生成」の思想をすでに内包している。
《Sound of Ikebana》では、音が流体に作用し形が生まれるが、本作では、光と時間の変化が音となり、感覚そのものが立ち上がる。
つまり《An Expression》は、映像作品ではない。
それは、視覚・聴覚・身体のあいだにある不可視の関係が、時間とともに露出していく過程である。

国立国際美術館

ECSTASY

《ECSTASY》1986
身体が映像へ、感覚が形へ変わる初期ビデオアート
《ECSTASY》は、土佐尚子が1986年に制作した初期ビデオアート作品である。
実写の女性のトルソとコンピュータグラフィックスを複合し、「忘我」や「恍惚感」といった、通常は形を持たない内的感覚を造形的映像として立ち上げた作品である。1986年のSIGGRAPHアニメーション部門をはじめ、多くの国際映像フェスティバルで発表された。
この作品で重要なのは、身体が単なる被写体ではないことである。
画面に現れる女性の身体は、欲望や快感を説明するための図像ではない。実写映像、CG、色彩、粒子状の変化が重なり合うことで、身体は固定された肉体ではなく、感覚が発生する場として現れる。
女のトルソ、粒子化する身体、赤く照らされた肉体、身体に触れる手、さらに緑の有機的・流体的なイメージが縦方向に連続している。ここでは身体は安定した輪郭を失い、分解され、変形し、別の物質や自然的イメージへと移行していく。つまり《ECSTASY》は、身体を映す作品ではなく、身体が映像へ変容する過程を扱っている。
美術史的に見れば、《ECSTASY》は1980年代のビデオアートとコンピュータグラフィックスが交差する重要な地点にある。
当時、CGはしばしば技術的な新奇性として受け取られた。しかし土佐は、CGを未来的な視覚効果としてではなく、身体の内部にある不可視の感覚を外部化するために用いている。ここに本作の先鋭性がある。
1987年にはSIGGRAPH Art Show入賞、1988年にはBACA’S 21st Annual Film-Video Festival入賞など、国際的評価も受けている。また、WAVEFORMS: VIDEO FROM JAPAN、ACM/SIGGRAPH Traveling Art Show “25 years of Computer in the Arts”、Image du Futur ’87、Experimental Media Festival: MIAMI WAVES などに出品されており、1980年代後半の国際ビデオアート/コンピュータアートの文脈に明確に位置づけられる。
さらに重要なのは、《ECSTASY》が後年の《Sound of Ikebana》へつながる思想をすでに含んでいる点である。
《Sound of Ikebana》では、音や声が流体に作用し、裸眼では見えない一瞬の形が生成される。《ECSTASY》では、身体、CG、映像編集が衝突し、忘我や恍惚という不可視の感覚が映像として生成される。つまり《ECSTASY》は、身体を表現した作品ではない。
身体の内部にある見えない感覚が、映像として形を持ちはじめる瞬間を扱った作品である。
この意味で本作は、土佐尚子の後年の核心である「表現ではなく生成を扱うこと」を、すでに1980年代に予告している。
自然が形を持つ以前の瞬間を扱う《Sound of Ikebana》に対して、《ECSTASY》は、身体感覚が形を持つ以前の瞬間を扱っている。
したがって《ECSTASY》は、初期CGやビデオアートの技術的実験にとどまらない。
それは、身体をイメージとして見る時代から、身体を生成の場として扱う時代への転換を示す作品である。

富山県立近代美術館

GUSH!

デイヴィッド・ホックニー以後の「映像的キュビズム」
《GUSH!》は、土佐尚子の初期映像作品において、身体・時間・視点の関係を先鋭的に扱った重要作である。
本作は、舞踏家を6台のカメラで異なる角度からリアルタイムに撮影し、それぞれの映像をデジタル・フレームメモリーによって断片化し、時間軸上でコラージュ/再構成した作品である。
この作品には、デイヴィッド・ホックニーの写真コラージュ作品への応答がある。
ホックニーは、複数の写真を組み合わせることで、単一視点では捉えられない時間と空間の重なりを一つの画面に構成した。
《GUSH!》は、その方法を静止写真から映像へ、さらに身体の運動へと移行させている。
つまり《GUSH!》は、ホックニー的な複数視点のコラージュを、ビデオの時間性の中で再発明した作品である。
ここで重要なのは、舞踏家の身体が単に撮影されているのではない点である。
身体は、一つの視点から把握される対象ではなく、複数のカメラ、断片化されたフレーム、時間のズレによって解体され、再び組み立てられる。
ホックニーが写真によって視覚の単一性を壊したとすれば、土佐は映像によって身体の単一性を壊している。
この点において《GUSH!》は、単なるビデオエフェクトではない。
それは、身体を「一つの形」として見ることを拒否し、身体を、視点・時間・メディアによって生成される出来事として扱う作品である。
美術史的に見るなら、本作はキュビズム、ホックニーの写真コラージュ、そして1980年代以降のビデオアートを接続する位置にある。
しかし土佐の独自性は、複数視点を単に画面上に並べるのではなく、身体の運動とリアルタイム映像処理によって、形が時間の中で発生するプロセスそのものを作品化した点にある。
したがって《GUSH!》は、舞踏の記録映像ではない。
身体の表現でもない。
身体が映像の中で生成される条件を扱った作品である。
《ECSTASY》が身体内部の感覚を映像として立ち上げた作品だとすれば、
《GUSH!》は身体の外形を、視点と時間の断片によって解体し、再生成した作品である。
ここには、後年の《Sound of Ikebana》へつながる明確な前史がある。
《Sound of Ikebana》では、音が流体に作用し、裸眼では見えない一瞬の形が生成される。
《GUSH!》では、複数の視点と時間の断片が身体に作用し、身体の形が映像として生成される。
つまり《GUSH!》は、土佐尚子における「生成」の問題を、自然現象ではなく身体と映像の領域で先取りした作品である。
最も鋭く言えば、こうである。
ホックニーが写真によって時間を空間化したのに対し、
土佐尚子はビデオによって身体を生成化を試みた。


高松市美術館

Pleasure

映像が観客を見るという反転——演劇空間における生成
《Pleasure》は、土佐尚子の初期映像作品の中でも、映像・身体・空間・視線の関係を先鋭的に扱った重要作である。本作は、劇作家・如月小春が主宰した劇団NOISEの舞台作品の中で使用された映像であり、1980年代における演劇とメディアの交差領域に位置している。
この文脈は決定的に重要である。
ここで映像は、独立した作品として上映されるのではなく、舞台空間の中で身体、言葉、音と結びつきながら機能する。すなわち《Pleasure》は、スクリーン上の映像ではなく、演劇空間そのものを変質させる要素として存在している。
本作では、波、炎、目といった実写映像が3次元DVEによって加工され、観客を包み込むような視覚環境が構築される。特に重要なのは、多数現れる「目」のイメージである。
通常、観客は映像を見る主体である。
しかし《Pleasure》では、この関係が反転する。
観客が映像を見るのではない。
映像が観客を見ている。

舞台空間においてこの効果はさらに強まる。
観客はスクリーンの外にいる安全な存在ではなく、俳優と同じ空間の中で、映像の視線にさらされる。つまり、観客は「見る者」であると同時に、「見られる者」となる。
ここで映像は単なる視覚情報ではない。
それは、視線そのものを生成する装置であり、観客の知覚の位置を揺るがす力として働く。
美術史的に見れば、《Pleasure》は、ビデオアートがモニターから解放され、空間・身体・観客の関係の中に組み込まれていく過程を示している。同時にそれは、演劇における視線の構造を、映像によって再編成する試みでもある。
土佐作品としてさらに重要なのは、ここにすでに「生成」の問題が現れている点である。
《Pleasure》において生成されるのは、映像そのものではない。
生成されるのは、
観客が見ているという前提
観客が外部にいるという位置
視線の一方向性
これらが崩壊する状況である。
つまり作品は、画面の中にあるのではなく、
映像・身体・舞台・観客の関係の中で発生する。
建畠晢向けに最も鋭く言えば、こうである。
《Pleasure》は、映像を見せる作品ではない。
演劇空間の中で、映像が観客を見返す条件をつくった作品である。

《An Expression》が視覚と聴覚の関係を生成し、
《ECSTASY》が身体内部の感覚を生成し、
《GUSH!》が身体の形を時間の中で再構成したとすれば、
《Pleasure》は、鑑賞という行為そのものを生成し直した作品である。
この意味で本作は、後年の《Sound of Ikebana》へと至る重要な前史をなす。
《Sound of Ikebana》が自然現象の不可視の一瞬を可視化するなら、《Pleasure》は、観客が見ていると思っていた世界から見返される瞬間を立ち上げる。
すなわち、《Pleasure》は、
視線と空間が生成される瞬間を扱った作品なのである。


名古屋市美術館

TRANCE

フラクタルが「図形」ではなく「意識の構造」になる作品
《TRANCE》は、土佐尚子の1989年の映像作品である。カラー、サウンド付き、6分の作品で、音楽は森本晃生、名古屋市美術館に収蔵されている。
この作品で重要なのは、フラクタルを単なる数学的図形として扱っていない点である。
フラクタルは、自然界に見られる自己相似の構造であり、雲、海岸線、樹木、血管、神経、炎の揺らぎなどに潜む形態原理である。《TRANCE》では、その構造が映像として展開され、観客は「図形を見る」のではなく、形が自己増殖し、変容し、深部へ引き込まれていく感覚を経験する。
つまり《TRANCE》は、フラクタルを説明する作品ではない。
フラクタル的な生成の中に、意識が巻き込まれていく作品である。
ここで「トランス」というタイトルは重要である。
それは単なる幻覚的映像ではなく、通常の知覚が揺らぎ、形と意識の境界が不安定になる状態を指している。映像は外側にある対象ではなく、観客の内部に作用し、知覚のリズムを変えていく。
美術史的に見れば、《TRANCE》は1980年代末におけるコンピュータ映像とビデオアートの重要な接点に位置している。
当時、コンピュータグラフィックスはしばしば「新しい映像技術」として扱われた。しかし土佐は、CGを未来的な装飾として用いたのではない。むしろ、自然の背後にある数理的構造、そして人間の意識の深層に作用する形態原理を可視化するために用いている。
この点で、《TRANCE》は後年の《Sound of Ikebana》と深くつながる。
《Sound of Ikebana》では、音が流体に作用し、裸眼では見えない一瞬の形が立ち上がる。
《TRANCE》では、フラクタルという数理的構造が、映像の中で増殖し、変容し、観客の意識に作用する。
つまり、両者に共通しているのは、すでに存在する形を表現することではない。
形が生まれ、変化し、意識に到達する過程を扱っていることである。
建畠晢向けに最も鋭く言えば、こうである。
《TRANCE》は、フラクタルを映像化した作品ではない。
自然と意識に共通する生成の構造を、映像の時間の中で経験させる作品である。

《An Expression》が視覚と音の関係を生成し、
《ECSTASY》が身体内部の感覚を映像化し、
《GUSH!》が身体を複数視点と時間によって再構成したとすれば、
《TRANCE》は、自然と意識の深部にある反復・増殖・自己相似の構造を扱った作品である。
その意味で本作は、土佐尚子が後に展開する「自然が立ち現れる瞬間」への重要な前史である。
《TRANCE》において自然は風景として描かれない。
自然は、形を生み出す数理的な力として現れる。
したがって《TRANCE》の美術史的価値は、初期CG映像の実験にとどまらない。
それは、映像を「見るもの」から、知覚と自然の構造が共振する場へと変えた作品である。


O美術館

Trip

潜在意識に残る映像感覚の生成
《TRIP》は、土佐尚子の初期ビデオアートにおいて、映像編集のリズムと身体感覚の関係を決定づけた重要な作品である。作品ページでは、本作のコンセプトは「人の潜在意識に残像として脳裏に焼き付くインパクトのある映像」を生み出し、日常の中で張り詰めた感覚を緩ませることにあったと説明されている。また土佐自身は、この作品で独自の映像編集のリズムを掴んだと述べている。
ここで重要なのは、《TRIP》が何かを物語る映像ではないという点である。
本作では、形態と色彩がメタモルフォーズし、変幻する画像が強い緊迫感を帯びる。映像は意味を説明するのではなく、観客の知覚と神経に直接作用する。つまり《TRIP》は、映像を「見る対象」としてではなく、意識状態を変化させる力として扱っている。
美術史的に見るなら、《TRIP》は1980年代の日本ビデオアートが、記録や物語から離れ、映像そのもののリズム、色彩、変形、速度によって観客の身体感覚に介入し始めた地点にある。1985年にはヴィデオギャラリーSCAN東京の「SCAN ’85 Autumn」、第2回インターナショナル・ビエンナーレ・ビデオCD’85、NICOGRAPH’85に出品され、1986年にはSIGGRAPH Animation Screening部門入賞、日本映像フェスティバル特別賞、1987年にはAmerican Film & Video Festivalビデオアート部門2位など、国内外で評価を受けている。
建畠晢向けに最も鋭く言えば、こうである。
《TRIP》は、映像で何かを表現した作品ではない。
映像のリズムによって、観客の内部に感覚が生成される条件をつくった作品である。

後年の《Sound of Ikebana》が、音によって流体を動かし、裸眼では見えない一瞬の形を立ち上げる作品だとすれば、《TRIP》はその前史として、編集、色彩、変形によって、観客の意識の中に残像と緊張、そして解放を発生させている。
つまり《TRIP》で生成されるのは、自然現象ではない。
観客の潜在意識に残る映像的な感覚そのものである。
この意味で《TRIP》は、土佐尚子の初期作品における「生成」の出発点の一つである。
それは映像を情報や物語から解放し、感覚を生み出す装置として用いた作品なのである。

Sanctuary

「静寂」

「雲の上の山水」

建仁寺奉納作品《Japanese Sanctuary》
「静寂」と「雲の上の山水」の意図
土佐尚子が建仁寺に奉納した《Japanese Sanctuary》は、単に「日本的な美」をデジタル技術で表現した作品ではない。建仁寺のページでは、本作は禅と神道に基づく「静けさ」と「ダイナミズム」を表現する作品として説明され、《静寂》と《雲の上の山水》の二作品から構成されている。
《静寂》は、建仁寺の庭に斜めに伸びていた約200年のモチノキをめぐる作品である。その木は数年前の積雪によって倒れ、現在は存在しない。つまりこの作品は、失われた自然を単に記録するものではない。消滅した木の時間、記憶、気配を、建仁寺という場に再び立ち上げる試みである。
一方、《雲の上の山水》は、飛行機の機内から撮影された1000枚以上の雲の写真によって構成された山水であり、右から天国・煉獄・地獄を表している。ここで山水は、伝統的な水墨画の図像として引用されているのではない。雲という現代的な視点、移動する身体、空中からの知覚によって、山水が新たに生成されている。

土佐は日本文化を図像として引用していない。
むしろ、静けさ、消滅、気配、死後の時間、山水的空間を、生成の構造として再構成している。
重要なのは、《Japanese Sanctuary》は、デジタル技術がここで未来性や新奇性を示すためではなく、失われた自然と宗教的空間の記憶を再び経験させるために使われている点である。
《Sound of Ikebana》が、音によって裸眼では見えない一瞬の形を取り出す作品だとすれば、《静寂》は、すでに失われた木の存在を、静けさの中に再び立ち上げる作品である。
《雲の上の山水》は、山水を描くのではなく、雲と移動と視点によって、山水が生まれる条件を作っている。
したがって、この奉納作品の核心は日本文化が持つ、見えない時間と霊性の構造を、現代の技術によって再び発生させている。
この意味で《Japanese Sanctuary》は、土佐作品における「生成」の問題を、自然現象から日本文化・霊性・寺院空間へと拡張した重要な作品である。
それは、伝統の再現ではなく、伝統が再び現れる条件をつくる作品なのである。